ラオス人民革命党
ラオス人民革命党は、ラオスにおける唯一の政党です。1975年に社会主義政権を発足させて以来、チンタナカーン・マイ(新思考)政策による市場経済の導入や1991年新憲法の制定を経てもなお、国家中枢としての役割を担い続けています。ラオス人民革命党のこの国の指導部としての正当性は憲法第3条に保障されており、実質的にも党の政治局メンバーは国家機構の主要なポスト(大統領、副大統領、国民議会議長、首相、副首相兼国防大臣、副首相、内務大臣)を兼任しています。
党の組織は最高機関である党大会の下に中央委員会と政治局があり、中央委員会は中央委員会事務局、各種委員会と大衆組織本部を所管しています。各種委員会には、中央組織人事委員会、中央査問委員会、そして中央情宣(情報宣伝)研修委員会があり、大衆組織本部にはラオス国家建設戦線、ラオス女性同盟、ラオス革命青年同盟、ラオス労働組合連合があます。この一連の党機構はそのまま各地方レベル毎に組織されており、政府行政機構と同様、州、郡レベルまで拡張されています。小規模ではありますが村レベルにも党組織が置かれています。
党の実質的な指導部は党大会で選出される中央委員会であり、その構成員は政治局及び前期政治局のメンバー、主要政府閣僚、軍の指導部、各州知事及びビエンチャン特別市市長、大衆組織本部の議長等となっています。現在49名のメンバーが1996年3月第6期党大会で選出されています。また政治局には、カムタイ・シーパンドーン大統領(兼党議長)を含む9名のメンバーが置かれています。
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このラオス人民革命党の起源は、1950年代初頭のインドシナ共産党ラオス部会にまでさかのぼります。ベトナム解放を目指すホーチミンが率いたインドシナ共産党は、1940年代中頃に非ベトナム系党員を編入しており、カイソーン・ポムウィハン(初代ラオス人民民主共和国首相)やヌーハック・プームサワン(前ラオス人民民主共和国大統領)等も1946〜1947年にかけて入党したとされています。
1951年2月、インドシナ共産党大会が党の解散を決議し、ベトナム・ラオス・カンボジアそれぞれ独自に党を結成すると宣言した後も、ペトナム労働党(1976年にベトナム共産党と改称)はラオスの民族解放闘争を支援し続けました。
1955年3月、ラオスにおいて第一回党大会が召集され、「ラオス人民党」の名称が採択されました。
1956年、ラオス人民党は、闘争部隊であったパテト・ラオの政治団体として「ネオ・ラオ・ハクサート(ラオス愛国戦線。現在のラオス国家建設戦線の前身)を設立し、その活動を陰から指揮していました。
第1期党大会から17年を経て、第2期党大会が1972年2月に召集され、現在の「ラオス人民革命党」の名称が採択されました。
1974年の王国政府との最後の連立政権
1975年のラオス人民民主共和国の成立
1982年4月に第3期
1986年11月に第4期
1991年3月に第5期
1996年3月に第6期党大会が召集され、現在に至っています。 |
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参考資料と引用:日本国外務省 (財)自治体国際化協会 |