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政治体制
ラオス人民民主共和国は1975年12月、ラオス人民革命党の一党支配による社会主義国家として誕生しました。以来、党は自らの理念に基づく国家政策を実施するため、中央から州、郡、村の各地方レベルに張り巡らせた党組織を機軸に、国家体制基盤の確立に取り組んできました。
しかし、1980年代前半の社会主義諸国で起こった経済自由化への流れを受け、党大会は「チンタナカーン・マイ(新思考)政策」を採択、その後は資本主義諸国やASEAN諸国との友好関係を樹立・促進して、市場原理に基づく経済体制への移行を目指す新たな経済・社会開放化施策に向けて歩みを続けています。
その最も大きな転機となったのが、1991年8月に、1975年の社会主義政権への移行以来初めて制定された憲法です。その中には、国民の権利義務から国家経済開発目標としての市場経済への移行や平和的共存を追求する全方位外交政策等が掲げられました。また国家機構については立法部・行政部・司法部が分離されて、それぞれの権限や任務に係る明確な定義付けがなされました。ただし政治体制についてはこうした開放化路線は採られず、憲法第3条には「多民族よりなる国民が国の主権者たる権利は、ラオス人民革命党にその中枢を置く政治体制の機能を通じて行使され保障される」とあり、憲法制定前と同様にラオス人民革命党による一党独裁体制の維持が明記されています。
実際、今日までのラオスの国家機構には、1975年以来、党が築き上げてきた独裁体制が浸透しています。現行の国民議会議員はその99%が党員であり、大統領や首相、政府閣僚といった中央の指導部だけでなく、知事や郡長、村長等各地方の長はすべて各地方レベルの党委員会の書記長を兼ねています。党大会で採択された理念や将来計画は、各指導部が党員で構成される立法部・行政部・司法部によって立案・政策化され、確実に実施されるしくみとなっています。このことについて、党は当面の国家最優先課題が経済の発展と国民の生活水準の向上であり、国家全体が一体となってそれに取り組んでいくためには、ラオス人民革命党一党を中枢に置いた国家運営が有効であると主張しており、野党の存在を認めていません。
また、ラオスにおける中央と地方の関係も、中央政府による統一的な政策の実施が掲げられており、地方機関の長には国の法律及び中央政府の下した決定の遵守が課せられています。かつてラオスでは脆弱な交通通信環境と法制面の未整備のために、中央の管理が行き届かないまま地方政治が放任されていました。それが中央への税収の大幅減を招いた反省から、憲法では中央政府の集権強化に重点が置かれた規定となりました。チンタナカーン・マイ(新思考)政策以降、地方議会選挙による民主的な地方立法機関も成立していましたが、「国家の統一管理には不必要」との判断のもとにその地位及び権能は新憲法上認められることはありませんでした。
このように、現在ラオスではあらゆる面において中央集権化が進められ、国家運営・経済基盤の建て直しが図られています。当面は人民革命党の独裁体制による国家運営が続けられていくと思われますが、市場経済への移行とともにUNDP等の国際援助機関の関わりも確実に増加しており、こうした機関の民主的イニシアチブが、今後の人民革命党の政策立案過程にどのような影響を与えていくのかも、ラオスの今後を占う要素の一つとなっています。 |
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参考資料と引用:日本国外務省 (財)自治体国際化協会 |
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