プミポン・アドゥンヤデート
国王
シリキット王妃
マハー・ワチラロンコン
皇太子
マハー・チャクリ・シリントン
王女
チュラポン王女 |
「プミポン・アドゥンラヤデート王ラーマ9世」
タイのチャクリー王朝の9代目の王で、現タイ国王です。
一般には「プミポン国王」と呼ばれています。 |
経 歴 |
1927年12月5日 |
誕生 |
アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジで生まれ、ラーマ5世の69番目の子息です。父はソンクラーナカリン新王。 |
1934年 |
留学 |
スイスに留学 |
1945年 |
学業 |
スイス・ローザンヌ大学(政治学、法学)に入学 |
1946年6月9日 |
国王に即位 |
学業中に一旦休学し1945年タイへ帰国しましたが、翌年の1946年6月9日に実兄ラーマ8世(アーナンタ)が怪死したため、兄王の死の12時間後にタイ国王即位しました(当時19歳)。 |
1952年 |
タイ帰国 |
その後すぐにローザンヌ大学へ復帰し、1952年に帰国。同年と結婚しました。 |
1950年4月 |
ご成婚 |
フランス滞在中に出会った同じく王族のモム・ラーチャ・ウォン・シリキット・キッティヤーコーン(シリキット王妃陛下)と御成婚 |
1956年 |
仏門入門・還俗 |
タイの仏教の伝統に基づき仏門に入り一時的に俗世間を離れ、還俗(再び俗世に復帰)しました。 |
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俗世に復帰後 |
その後一男三女をもうけ、現在に至ります。 |
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プミポン国王は、官僚や軍部が着実に政治的力を付けた20世紀の中で、国内が混乱するかに見えた時も事態の収拾に見事なまでの政治的手腕を見せました。地方視察も非常に精力的に行い、確実に国民の信頼を勝ち得て、国民からの絶対的な信頼を受けています。 |
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1992年5月に発生したクーデターでは、軍を背景にする首相と民主化運動グループの民間人指導者を玉座の前に等しく正座させ、説教し騒乱を一夜にして沈静化させたという逸話は有名で、人間性の高い人物であるというイメージが定着しました。
2003年にタイ芸能人の軽蔑発言による隣国カンボジアとの間で小競り合いにおいて、扇動されたタイ国民が在タイカンボジア大使館に押し寄せた際に、「悪党の言葉に惑わされてはならぬ」と明快無比な表現で帰宅させました。
2006年4月には野党が立候補をボイコットした下院総選挙を「民主主義的ではない」との理由でやり直しを示唆し、憲法裁判所が国王の意向を受けてやり直しを命じました。 |
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現在、国王がタイで広く非常に尊敬され支持されているのは、学校教育で行われている国王崇拝や不敬罪といった強制的なものによるのではなく、上記のような功績が評価され、国民の間に自発的に尊敬の念がおきているからとされています。 |
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タイ史上稀にみる長い期間王位に就いています。現在は高齢で体が弱り、普段はホアヒンにあるクライカンウォン宮殿に居住して、公務の数を減らしています。2006年6月には即位60周年を祝う祝賀行事が国を挙げて執り行われ、世界25ヶ国の君主制を採る国々から王族・皇族も参列し、国王の即位60年を祝いました。日本からは現天皇陛下「今上天皇・明仁」様も参列されました。 |
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プミポン国王は日本の皇室と縁が深く、1963年5月に初来日した時に当時の皇居仮宮殿で昭和天皇と会談を行っています。 |
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タクシン政権の時代、国王陛下はスピーチの中で趣味にされているジャズを例に出し、「ジャズの神髄である即興演奏(アドリブ)は、一緒に演奏する相手の音を聞き協調関係を成立させた上で演奏しなければ全体として素晴らしい演奏は成立し得ない」と話されました。これは「メンバーの中に一人でも突出しようとする事を欲する者が居れば、全体的な統一感を損ない素晴らしい演奏は成立しない」と意味されます。タクシン首相の定例政見放送を指して、自己の考えのみが正しいと信じている者が一方的にその考えを主張し、国民に聞くことを強いている、異なる意見に耳を傾け、議論を通して国の為に何が最善であるかを検討することが重要であると指摘されました。 |
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正式名称 |
プラバート・ソムデット・プラパラミンタラ・マハー・プーミポン・
アドゥンラヤデート・マヒタラーティベート・ラーマーティボーディー・
チャックリーナルボーディン・サヤーミンタラーティラート・
ボーロマナートボーピット |
英語表記 |
Bhumibol Adulyadej |
別名・通称 |
プミポン・アドゥンラヤデート王、プミポン王 |
称号 |
ラーマ9世 |
王朝・代 |
チャクリー王朝第9代目 |
統治地域 |
立憲君主制により統治していません |
趣味 |
写真撮影・ジャズ演奏 |
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